■[非定型]倒錯する世界 15:17CommentsAdd Star

 小説で(もなんでもいいが)、形式的にもっとも崩しづらく、また崩すと何かおもしろそうに思えることに、「一人称」と「時間軸」がある。

 昨日の「針山登山顛末」を書いて気づいたのは、「一人称」というのは、「過去」から(現在を通して)「未来」へと流れる時間軸で、過去を前提としながら連続して存在しつづけないと、その体を保てないということだ。「針山〜」は、ロドリゲス卿という人間を中心とした視点、読者が世界観にアクセスするための特権的な人間(主人公)に基づく話であるが、時間は十年ずつ小刻みに逆流していく。それは彼の個人史の断片のようでもあるが、我々は「因」と「果」の世界にいきているので、逆流する時間においてはつねに「因」をもとめて遡り続けなければならない。このとき、主体を通して出来事が発生するはずの通常の世界と異なり、出来事が先行する世界に主体は振り回される。そしてそのとき、アイデンティティを有してるのは主体でなく、出来事なのだ。

 これはアイデンティティという概念が「過去の私は、かつて私であった」という、過去に立脚することで成り立っていると言う点で、前後が強固に結びついている因果関係に比べ、はるかに脆弱なものであることを表している。

 「針山〜」のロドリゲス卿は、「時間は逆行して記述される」が、「文脈は因果的に進行する」世界で引き裂かれ、通時的に語るのが不可能なキャラクターとなった。むしろそれは、「点として存在しているようでもあり、雲のように漠然としている」、分子雲のようなありかたとなる。これで、ロドリゲス卿は登場人物であることをキープしながら、人物性を破壊されることになる。

 だから彼は(小説的展開の果てに)「星の雫」になった。また、先起源的に、「少女」というミステリアスなものに行きついたのも不思議ではあるまい。それは、人間の起源をエデンの園に求めようとする(そして最後の審判後に『神の国』、本来あるべき場所へと帰ろうとする)、ある種の回帰願望、失われた純潔への郷愁である。

 だから時系列では100年前と記述されているが、彼は小説的には、少女へと「到達」したのである。

 この光景はある仮説を想い起こさせる。ビッグバンによって膨張しつづける宇宙は、やがてそれをやめ、縮小しはじめる。そしてそのとき、我々が過去→未来へと流れていると思った時間は、逆流するというのである。

 このとき、まさしく「果」があるから「因」へ、と、世界は逆転する。もしこの仮説通りになったとしたら、そのとき世界は我々の目にどう映るだろう? 今の我々が今の世界に基づくことに疑問を持たないように、まったく自然なもののように映るだろうか。想像もつかない。

 しかしそれこそ、我々が存在を夢想する「あの世」ではないだろうか。なるほど、死人は蘇る。

 このロドリゲス卿の物語は、そんな天国の情景を垣間みさせているのかもしれない。すべては元に戻り、キリスト教徒はアダムとエヴァになる。そして宇宙は砂粒ほどに小さくなる。

 その宇宙の外にはなにがある?

 「それが少女です」

 私は独りそう嘯きながらコーヒーを飲む。

「はっぴいえんど」という都市観察方法。

「ゆでめん」
村、田舎のお正月、お茶という「はっぴい」が「東京」になることで「えんど」する。

東京は「風街ろまん」
はいから。馬鹿になる。ロックというアメリカ。ハロー。はいから。いかにアメリカになるか。
「はいからはくち」人が死ぬ
「白痴」「白痴」「乾燥」「そお。」
洗脳される「はいから・びゅーちふる」になる。
狂う音楽。狂う日本語。
「颱風」「愛餓を」
愛が無い。東京には愛が無い。
日本がいかに狂うか。はっぴいえんど「風街ろまん」

「HAPPY END」
アメリカを殺せ。ENDさせろ。日本はニッポンになるし、アメリカもだめだ。
どっかないのかな。楽しみはどこかな。夢を見る。田舎が恋しくなる。でも東京は彼らを離してくれない。ならばドラッグだ。精神世界に逃げる。「風来坊」「田舎道」「外はいい天気」。自分たちだけの音楽を作り出す。そして合意形成が分裂し、解散する。
精神世界という自分だけのアーカイブに逃げる。自分だけのマトリックス。
「さよならアメリカ、さよならニッポン」

「はっぴいえんど」が分解され細野になった。ハワイに行ったりアフリカに行ったり世界中を旅する。ドイツでクラフトワークを見つける。でも結局コピーでしかない。
なら文化を作るか。流行を作るか。洗脳させるか。

細野はサイボーグアイドル「松田聖子」を作った。精神兵器、神社。東京にテロを起こした。東京がアメリカを追い出した。

アイドルブーム。日本人ははまる。

日本人を洗脳する細野。しかし彼はどこにも見当たらない。

細野が今の東京を作った。彼は建築家だ。しかし文化という文脈に溶けていく。存在感がない。マイノリティーであることの強さ。

細野は田舎から逃げ出し、東京から逃げ出し、世界中を逃げ回った。

「逃げ回る」「溶けていく」という強さ。マイノリティーの均質化。サイバーパンクという文化への反発性と融合性を内包したジンテーゼ。

私の経験から象徴的な話をしよう。中学生の頃は、「生きることに意味があるのか」という疑問で悩んでいた。とにかくその根本的な疑問が晴らせないと、日々の学業もおちおちやれねえや、という感じだった。

が、高校になってソシュール関係の本を読んで、意味というものが恣意的なものであると知る。
記号論といって、「意味するもの」と「意味されるもの」の繋がりを考えるのだが、例えば「イヌ」(意味するもの)は、「あの毛むくじゃらで、四本足で、ワンワン鳴く生き物」(意味されるもの)を表す。しかしその生き物が「イヌ」と呼ばれる必然はない。あるいは「リンゴ」でも「ウンコ」でもよかったのである。ただ、イヌはリンゴでもウンコでも孫の手でもコペルニクス的転回でもないから、「イヌ」という言葉が割り当てられている。

そこからさらに、ヴィトゲンシュタインという人が、論理学的な意味や意義(内容)を集合で考える姿勢に触れた。
ヴィトゲンさんについては細かいことは忘れてしまったが、結論だけ言うと以下のようになっている。あらゆる哲学的命題は論理的な意味を持っていなく、その命題は命題としての体をなしていない。

つまり「生きることに意味があるのか」という質問は、存在しない。(質問として成り立ってない)

この人はこのようなことを論理学や数学を駆使して証明した(のちに、考えが変わって撤回しているが)

これを読んだ時は衝撃だった。あまりにぶっ飛んだ結論に目眩がしたのもあったが、つたない感情的な思想は全くの無力であることを知ったからだった。
大人の世界の広さを知った瞬間でもあった。

アルベール・カミュは憎たらしいくらい立派な鼻をお持ちのようだ。そして、脳髄には死体が埋まっていたのだった。そんな風な高校時代の記憶が、ふと甦った。昔、友人が、夏休みの読書感想文で『異邦人』を題材にし、カミュへのオマージュとして不条理をテーマにした作品を書いたのだった。

その作品に出てくる男と同じように、僕はバーでギムレットを飲んだ。男のように一人きりではない、大学の友人らと一緒だった。友人が書いた小説に出てくるバーは、僕には新宿を思わせたが、僕らが飲んだのは神楽坂だった。男がそうであったのように、流した涙で酒がしょっぱくはなることはなかったが、粘膜が弱まっていたせいで、僕の目から涙が止まることはなかった。

高校生の僕には、いくら頭をひねくり回しても、ギムレットなんて言葉は出てこなかった。『ロング・グッドバイ』のせいもあってか、今ではギムレットはハードボイルドをも連想させる。僕はハードボイルドに憧れたことは一度もなかったが、友人からはそんな印象も引き出される。あの頃から、レイモンド・チャンドラーなんかも読んだりしていたのだろうか。

少し酔っぱらった。大学の友人との会話が弾む一方で、そんな妄想も膨らんでいった。今日、初めてバーに入ったのも、きっかけはひょんなことだった。相変わらず僕は酒が弱いし、多くの場合、酒の場で馴染んでいるとは言いがたい。それでも、ウマい味のする世界が、自分にもまだ開かれている気がして少し嬉しくなった。

電気が暮らしてる宣言

現代において、空間を支配するものとはどんなものだろうと考えたことがある。僕は建築デザインを専攻しているので、どうしても設計者の側から空間を 考えてしまう。建築空間とは設計者の描いた平面図に描いてある壁やそこにあけられた開口部によってできあがっていると思っていた。

しか し、実際僕たちが暮らしている部屋の中では、建築の持つ平面や開口部はそれほどの意味をなさないでいるように思える。むしろ部屋の中で重要になってくるの は、机、椅子、テレビ、パソコン、棚、食器、調理器具‥数えればきりのない大量の生活器具である。それらの配置で僕たちの生活は規定される。ここでご飯を 食べる、ここで勉強をする、ここで寝る、行動を引き起こしているのは建築だけではないはずだ。

そして、生活器具の多くは電気によって統率される。コンセントからのびるコードに繋がれた家電たち。それぞれに与えられた機能を全うし続ける。空間が生活器具によって規定されるならば、生活器具の多くは電気(コンセント)によって規定されていると言える。

僕 たちは大量の生活器具、つまり「もの」を携えて生きてきたはずだ。しかしそれは増えすぎた。使わないもの、捨てなきゃいけないもの、コントロールしきれな い大量の「もの」が生まれる。果たして生活している主体は本当に人間なのだろうか。反転していないか?もしかしたら「もの」が僕たち人間を携えているので はないか。僕たちが暮らしていると思っていた部屋で暮らしているのは、その中を高速で流れる電気だったりするのかもしれない。

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“電気が暮らしてる”

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“電気が暮らしてる”レビュー

大学のギャラリーで行った展示のレビューが掲載されていました。

ありがとうございます。

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